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発展期 – 最新鋭の設備の中で

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1990年 – 2000年

新工場建設

1990(平成2)年12月、愛知県丹羽郡扶桑町に念願の新工場を建設した。敷地面積1000平米、床面積870平米の鉄筋造りの建物で、2016(平成28)年現在も本社として使用されている。

本社設計図 (1F部分)本社設計図 (1F部分)

どこに工場を建設するか、下見を行なったのは社長の藤井祥三自身であった。条件としては、江南工場からさほど離れていない場所であることと、近くに住宅地がないことだった。金型工作機械はいずれも作動時に大きな音を立てる上に、夜通し稼働する。ほどなく、扶桑町の工業地域に空き地を見つけた。周辺に多少民家は見られるが、ここならばさほど迷惑はかかるまい。

土地代も含めた総建設費の見積もり額は2億円であった。世はバブル期であったため、土地価格や建設費の価格はとどまるところを知らなかった。例えば、90年における土地の公示価格上昇率(全国平均)は、前年比で約17%増である。その反面、金融機関が融資先をやっきになって募っていた世相だったので、資金調達にはさほど苦労はしなかった。

ただし、当時の会社の売上は2,000万円/月、つまり建設費は年商と同程度の額である。またこの頃、一時期ではあったが、売上が極端に落ち込んだことがあった。移転するかどうか迷ったが、「会社の規模は器(工場)の大きさで決まる」というポリシーにより敢行された。あわせて、社員寮として会社の横に一軒家を借りた。

引っ越しは、工作機械などの重機は専門業者に依頼して先に運搬、パソコンなどの手回り品は社員全員が運んだ。仕事と並行しての移転であったものの、1週間ほどで終了した。

新社屋の設計図を見ると、1Fには旋盤2台、フライス3台、研磨機1台、試作用プレス、マシニング2台、コンプレッサー1台。2F には放電加工機4台、ワイヤー加工機2台、NC フライス2台。大型の工作機械の重量に耐えられるよう、あらかじめ床に補強を行なった。採光を考え窓は大きく、作業スペースがゆったりと確保されたレイアウトだった。もちろん1階2階とも空調付きである。

1日1回は身たしなみをチェック身だしなみチェックは仕事の基本

1階と2階をつなぐ階段の踊り場には、作業の合間に身だしなみを整えられるように、大きな鏡を置いた。「床も壁もピカピカで、本当に気持ちがよかった」と社員は当時を振り返る。そのときから始まった整理整頓、清掃などの5S運動は、今でも社内文化として根付いている。

設計のためのスペースは2階に確保し、購入したCAD3台を設置した。これにより、手書きの設計からスタートしていた金型製造は、2次元CAD→NC工作機械による切削というデジタル的な工程に完全に移行した。またLAN 構築も、ここに専任を置いて再チャレンジの末成功し、外注コストの削減に大きく役に立った。

新しい工場になったことで、社員の募集も容易になった。藤井祥三の出身地、岐阜県白川町にある白川高校に対しては、移転前の1987(昭和62)年より入社の勧誘を行なっていたが、移転以降、多くの新卒者が社員となった。

白川高校は普通科であり、工業の基礎知識はない。先輩社員から図面の見方や機械の扱い方を教わり、一から金型作りを学んでいった。若い頭脳はデジタル化していく金型の新技術を、すぐに吸収した。こうして白川高校から入社した「白川組」は、会社躍進のための大きな戦力になった。

CADCAM、3次元CAD(3D CAD)の時代へ

90年代初頭の当社の月間金型生産量は、10型から12型という生産ペースだった。2016年現在に比べると、量にすれば1/2弱、売上高にして1/5以下である。

この時代に普及し、業界の生産効率をあげたものとして、CADCAMが挙げられる。CADで作成した形状データをCAM上で利用できるようにするシステム(ソフト)である。

ただし、今も昔も、ソフトを導入しただけでは効率化は図れない。金型は注文生産品であるため、市販のソフトがそのまま使えることはほとんどないからだ。加工材料の硬さや求められる精度に応じ、どのような工具と加工条件で切削するか。これらについての経験値を集積してこそ、データで加工を行なう意味がある。

フロッピーの変遷 (左から8インチ、5インチ、3.5インチ)フロッピーの変遷 (左から8インチ、5インチ、3.5インチ)

当時、CADもCAMもデータ用フロッピーは3.5インチ型に小型化していた。データ容量は1枚で数メガバイト程度だったため、1つの金型を作るのに、多数のフロッピーを要する。CAMでいえば、1枚につき刃物1本程度のデータ量しか保存できなかった。設計者はこうして大量のフロッピーと格闘しながら、属人的な技量だった加工のノウハウ部分を、自社データとして蓄積していった。

また設計段階の「モデリング」については、3次元CAD(3D CAD、立体CAD)が登場した。

従来の2次元CAD(2D CAD)による図面は、複数の方向からみた形状をそれぞれ平面図形で表したものである。そのため、加工に入る際には、担当者がこれらの図面を見て、作るべき型を立体的にイメージしなければならない。これがモデリングである。そのため、球状などの曲面や複雑な曲線を含む場合は、職人の長年の経験とカンが必要であった。頭の中でモデリングができるかできないかで、業界でやっていけるかどうかと言われたほどの重要な技能である。

ところが、3次元CADがこれを変えた。立体空間上で製図を行なうために、できあがりが誰にでも可視化できるようになったのである。ただし、市場に出始めた90年頃は1台1億円と非常に高価であったこと、またモデリングのための操作が複雑であり、習得が難しいという問題点があった。そのために当社では、登場後しばらくはモデリングを外注していた。当社が3次元CADを本格導入したのは、2000年代に入ってからである。

90年代以降、生産力においては、NC工作機械やマシニングなどの最新設備をいかにそろえるかが重要になった。また当然ながら、これら工作機械を扱うノウハウやCAD・CADCAMといった設計情報機器を使いこなす技術、そしてそのプロセスにおいて得た有用なデータをいかに蓄積するかが、各金型会社の競争力の源泉となってくる。手仕事的な従来型の職能のほかに、設計や加工における情報技術も、金型作りにおける重要な技能となってきたのである。こうした分野を担当する人材の募集が急がれた。

「不況の時こそチャンス」

新本社で事業をスタートしたこの時期から、ゆるやかだが大きな変化が起こりつつあった。ダイカスト受注品の種類が変わってきたのである。

この頃を振り返った社員が一様に口にするセリフは「金型がどんどん複雑化してきた」「金型1つの単価が大きくなってきた」。これには、自動車関係の仕事の割合がますます増えてきたことが関わっている。自動車は1台200〜300の部品からなっており、従来の主力の一つであったガス管や生活用品などと比べ、より精緻さが要求された。

同時に、不況知らずだったはずの金型業界には、大きな環境変化が訪れていた。

ひとつはバブル崩壊後の景気後退である。業界全体では、バブル崩壊直後の数年間、成長率はマイナス10%以上も落ち込んでいる。そのあと90年代半ばにかけて回復するものの、後半にまた落ち込むという、大きな変動を見せている。

もうひとつの変化は、簡単な金型を中心に、海外、特に中国を中心とする東アジアでの生産が、盛んに行なわれるようになってきたことである。

1992年(平成4)では、全世界の金型生産額約5兆円のうち、日本の占める割合は1兆7,589億円、つまり世界の金型の約3分の1が日本からであった。しかし、中国などでは生産量の伸びが著しく、輸出額において84年に136万ドルであったものが、2001(平成13)年には2億ドル超と150倍近くに増えている。主力はプラスチック用金型であるものの、台湾のメーカーでは、日系企業に対してダイカスト金型を供給する会社も現れ始めた。当社でも、90年代の半ばを下るにつれ、実感として仕事の量が減ってきたという。

このような状況下では、品質はもちろん、納期や価格が勝負のしどころになる。いわゆる価格競争である。いかにいいものを安く、早く作るか。「フジイ金型は安い」という評判が、すでにダイカスト会社の間にはあった。それだけに、コストダウン要求を飲み、他社との競争に埋没することはかなりリスクが伴う。

しかし、金型業界は切粉を出していればとにかく儲かるという信念があった。今後も積極的に投資を行ない、設備を整え、人材を確保・育成していくしかない。さらに「分業」を徹底して、より効率的な生産を図ることによって、ライバルを押さえて生き延びることができるだろう。幸い、新本社に移ったことで生産のための環境は整っている。

そして人材市場については、長期間にわたる不況のあおりで余剰感がある。ウチのような小規模の会社はまず採用で苦労するから、今こそ人材を積極的に採用しつづけよう。「不況の時ほどチャンスだ」と藤井祥三は腹をくくった。

時代とともに社員の募集方法も変わり、直接求人に回ったり職業安定所(ハローワーク)に届けたりする方式から、求人情報誌に広告を出す形が一般的になっていた。一度広告を出せば、当時不況であった建設や不動産業界などを中心に、多くの応募者が集まった。あるときは60名ほどの応募者が殺到し、食堂で面接をしたこともあった。ここでのちに幹部となる人材が集まったことが、次の10年での大きな飛躍のもととなった。

このように、拡張路線をとったフジイ金型の社員数は、90年代の初めから末にかけて20数名から30名前後に増加、年商では2億円から4億円に倍増した。換算すると年率7%以上の程度の成長率である。

一方、業界全体でも景気変動の波に揺れながらも、90年代末、金型事業所数は全国で約1万3千社を数え、戦後最大に達する。しかし、ここがピークであった。独自技術に乏しく、簡単な金型しか製造できない会社、デジタル化に対応できなかった会社、次世代に技能を伝えることができなかった会社などが、21世紀に入ってから次第に淘汰を迎えたのであった。

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